マーティン・ルーサー・キング・ジュニアF
         〜アメリカにおける侵略と略奪の歴史
                  


1790年の統計によると、アメリカ合衆国の人口は393万人で、
そのうち白人は80%(イギリスとアイルランド系が過半数を占める)、
アフリカ系19%、アメリカン・インディアン1%となっている。
2005年には、白人(ドイツ系が一番多い)74.7%、
アフリカ系12.9%、アメリカン・インディアン0.8%となり
翌年、アメリカの人口は3億人を超えた。
アフリカ系アメリカ人の先祖は、1619年から1860年代までに
西アフリカのギニア海岸周辺の地域、
主に現在のセネガル、ガンビア、シエラレオネ、
ガーナ、トーゴ、ナイジェリアあたりから
奴隷貿易によって連行された人々である。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは奴隷の子孫であり、
黒人という理由だけで白人からひどい人種差別を受けてきた。
そのため彼は法による平等や差別撤廃を要求する
公民権運動のリーダーとなって同胞や弱者のために人生を捧げたのだ。
では、なぜアメリカにヨーロッパやアフリカにルーツを持つ人種が
これだけ多く存在するのか?
ネイティヴ・アメリカンであるインディアンはどこへ行ってしまったのか?
こうした初歩的な疑問を解決すべくアメリカの歴史を紐解いてみたら、
何ともおぞましい略奪と殺戮の歴史を知ることになり、
自由と民主主義の国「アメリカ」という概念が私の頭の中で
ガラガラと崩れていったのである。

ジャーナリストの本田勝一氏が著した
『アメリカ合州国』(1970年 朝日新聞社)に書かれていた
プエプロ・インディアンの部落長、
ポール・バーナル氏の言葉は印象的だ。
「日本人は自分の国を持ち、自分の言葉も政治組織も持ち、
先祖たちと自分とが土地を共有しています。
しかしアメリカでは、一番最初の人間はわれわれでしたが、
いきなり白人が侵入してきてわれわれを"野蛮人"と規定し、
すべてはそこから始まったのです。
どだいアメリカ合州国などというのは、旧来の土着文化や宗教を破壊し、
強盗と虐殺でできた国なのです・・・」
(注:本田氏は合衆国の"衆"を意図的に"州"と表している)

アメリカにはかつて多くのインディアン部族が存在し、
中でもナホバ、チェロキー、チョクトー、スー、アパッチ、ブラックフィート、
イロコイ、プエブロの人口はかなりの数に達していた。
彼らはハリウッド映画の西部劇ではたいてい悪者として登場し、
それに立ち向かう白人は正義の味方のように描かれている。
ところが実際は逆だった。
ヨーロッパからやってきた植民者たちは「侵略」という言葉を
「開拓」という言葉にすり替えて、
フロンティア(開拓者)精神という自己中心的な理念を掲げながら
その凄まじい物質欲と支配欲によってアメリカ先住民を虐殺し、
彼らの土地を奪って植民地化していったのである。

私は『アメリカ合州国』の巻末に付録として載っていた
インディアン、「ジョゼフ酋長の最後の戦い」(1897年)
を読んで胸が締め付けられた。
そこには先祖伝来の土地が白人の巧みなウソと襲撃によって奪われ、
多くの仲間を虐殺された揚句、農業ができない不毛地帯に無理やり押し込まれた
彼らの深い悲しみと怒りがあふれていたからだ。

今、私達は平穏に毎日を送っている。
ところがある日突然異民族がやってきて、最初は友好的だったが、
徐々に自分勝手な要求を提示し、「住んでいるこの場所から今すぐ立ち去れ」
「お前の行く場所はあの砂漠だ」などと命令されたらいったいどうするだろうか?
抵抗したら殺されてしまうのである。
このような想像は現代において非現実的かもしれないが、
アメリカ・インディアンはこうした不当な要求を白人から突き付けられ
ギリギリのところまで譲歩し、最後は侵略者との戦いに敗れて、
土地や家屋、そして多くの仲間と家畜を失ったのである。

アメリカ合衆国では11月の第4木曜日が「感謝祭」の日にあてられ、
その日は家族や友人の間で盛大な食事会が開かれる習慣があるが、
インディアンにとっては「大虐殺が始まった日」とされている。
それは1620年、イギリスからメイフラワー号に乗って
信仰の自由を求めてアメリカにやってきた清教徒、
ピルグリム・ファーザーズの一行102人が
マサチューセッツのプリマス植民地に移住したことに端を発する。

翌年の秋、ピルグリムは新しい土地で多くの作物を収穫した。
その最初の収穫を記念する行事が「感謝祭」である。
しかし周辺地域に住んでいたインディアンと
食糧や土地を巡って争いが起きるようになり、両者は友好条約を結んだが、
ピルグリムは条約内容を自分達の利益につながるように解釈して
1630年、インディアンの土地に侵入。
その結果、先住民の大半はピルグリムがもってきた
天然痘によって病死してしまった。
その後彼らは他の地区のインディアンとも争い事を起こし、
先住民の村を襲撃して大量虐殺を行った。

1830年には大統領によってインディアン移住法が制定され
保留地への強制移住に従わないインディアンは絶滅させるという
「インディアン絶滅対策」が推進された。
そのためアメリカ南東部に住んでいたチェロキー族、セミノール族
チョクトー族、クリーク族は
現在のオクラホマ州のオザーク高原近くに移住させられたのである。
特にチェロキー族は厳冬の中、
1000kmも離れた土地に徒歩で移住させられたため、
旅の途中で1万2000人のうち8000人が死亡した。
この悲惨な旅はインディアンの間で「涙の旅路」と呼ばれている。
植民者たちは先住民絶滅対策の一つとして、
病原菌のついた毛布をインディアンに贈り
故意に伝染病に感染させて彼らを抹殺しようとした。

白人によるアメリカ植民地政策が一段落すると、
今度は矛先を変えてインディアン問題を解決するための同化政策に乗り出す。
ペンシルバニアに「カーライルインディアン工業高校」がつくられ、
「人間を救うためにインディアン(野蛮人)を殺せ」
という標語が校長によって掲げられて、
インディアンの子女が強引に保留地から呼び寄せられ学校に放り込まれた。

そこではインディアンの文化や言語が禁じられて、
キリスト教や西洋文化を強制的に教え込まれ、
靴の修理や縫物などの手工業を習わされた。
うっかり部族語を話してしまったインディアンは、
「汚い言葉を話した」と教師から石鹸で口をゆすがれ虐待された。
そのため、彼らは英語しか話せなくなり、
保留地に帰っても職がなかったため
白人の住む街へ行かざるをえなくなったのである。
こうしてインディアンと白人の混血は進み、
純血のインディアンは激減していった。

そもそも白人植民者によるアメリカ侵略の歴史は
イタリアの探検家、クリストファー・コロンブスが1492年10月12日、
バハマ諸島のグァナハニ島に到達したことにより始まったのである。

14世紀から15世紀にかけて、
ヨーロッパ諸国は海上から直接アジアに行ける航路を求めて探検に乗り出した。
いわゆる大航海時代の始まりである。
その動機の一つは、アジア産の宝石、香料、絹織物が
ヨーロッパの上流社会でもてはやされたからだ。
特にインド産の胡椒は、
ヨーロッパ人の肉料理に欠かせないないものとして珍重された。
13世紀後半に元の大都を訪れ、アジアをヨーロッパ人に紹介した
マルコ・ポーロの旅行記「東方見聞録」も彼らのアジア熱に火をつけた。
その中で日本は「ジパング」と呼ばれ「黄金の国」だと紹介されいる。

新航路の発見を積極的におしすすめたのは、ポルトガルとスペインだった。
アフリカの南端をまわってインドに達する航路はポルトガルが探検をすすめ
バスコ・ダ・ガマは1498年に喜望峰をまわってインドに到達する。

「東方見聞録」を愛読していたコロンブスは、
インドは大西洋から西まわりでも達することができると考え、
スペインのイサベラ女王の援助を受けて大西洋を航海した。
1492年8月3日、サンタ・マリア号を含む3隻がスペインの港を出発し
10月12日に陸地を発見。
そこにコロンブスは上陸しサン・サルバドル島と名付け、
その後キューバ島やイスパニョーラ島などの島々を発見する。
これらの島が浮かぶカリブ海域の群島は西インド諸島と呼ばれるが
コロンブスがグァナハニ島(サン・サルバドル島)の住民アラワク人の肌の色を見て、
「インド周辺の島に到達した」と誤解したことに由来する。
よって彼は島の住民をインド人だと勘違いしてインディオスと呼び、
その結果アメリカ原住民の大半がインディアンと呼ばれるようになった。

コロンブスはバハマ諸島に住む原住民について以下のように記している。
「原住民は穏やかで優しい。
私がサーベルを見せたら、刃のほうを持って手を切ったくらいだった。
彼らは極めて純真かつ正直で、決して物惜しみしない。
乞われれば、何であろうと与えてしまう。
彼らは立派な奴隷になるだろう。
手勢50人もあれば、彼らを一人残らず服従させられるし、
望むことを何でもやらせることができるだろう」

その言葉通り、コロンブスは二回目の航海でイスパニョーラ島
(現在のハイチとドミニカ共和国)に渡り、
そこを植民地化しようと考えイサベラ市を建設した。
土地をスペイン人経営者に分割し、
原住民をカトリックに強制改宗させ、彼らに耕作と金の採掘を命じた。
しかし金の産出はわずかで、スペイン人は不満のあまり
原住民の虐待、殺戮、奴隷化を実行する。
一定量の金を貢納できなかった者は両手を切断され、
そのほとんどが出血多量と病気で死んでしまったという。
コロンブスは植民地でスペインが目当てとする産物を
手に入れることができなかった為、
500人にも及ぶ原住民を奴隷として船に積み、本国へ送った。
結局スペインが多額の金をつぎ込んで得た航海の産物は
奴隷だけだったので、コロンブスは本国に戻り問責を受けた。
これをきっかけとしてコロンブスの権限は縮小され地位も低下、
失意のうちに死亡する。
自分が発見した土地を最後までインドだと信じていた。

その後スペインはメキシコのユカタン半島に進み、
アメリカ・インディアンによって栄えていたアステカ文明を滅ぼし、
ペルーの山中に入ってインカ文明を滅ぼして
メキシコ以南のアメリカ大陸を手に入れた。
コロンブス以来スペインの植民者は、
ラテン・アメリカ、西インド諸島の原住民を征服・奴隷化し、
鉱山開発やサトウキビ・タバコ栽培のプランテーションで酷使したため、
原住民人口は死亡・逃亡によって激減し、絶滅に近い状態となった。

そのためスペイン政府は宣教師ラス・カサスらの建議を入れ、
強壮かつ異教徒であるアフリカ黒人の奴隷の使用に切りかえたのである。
当時キリスト教徒にとって異教徒は悪魔であると捉えられていた為、
教会も奴隷制を認め、政府や一般人もそれを非難する者はいなかった。
奴隷貿易はポルトガルがインド航路の開発途上で
アフリカ西海岸の黒人を捕獲して始めたものである。
ポルトガルもまた黒人奴隷を植民地であるブラジルに送った。

西インド諸島の砂糖プランテーション(大農場)が拡大するにつれ、
奴隷貿易は盛んになったが、17世紀後半にかけて、
オランダ・イギリス・フランスなどが両国の独占世界だった
西アフリカに割り込み、貿易基地や植民地を建設する。
ことにオランダの西インド会社は政府の後ろ盾もあって
ブラジルに進出し、砂糖と奴隷貿易を独占した。
その後イギリス領ジャマイカがブラジルに代わって世界における
砂糖生産の中心になると、王立のアフリカ会社を中心とする
イギリス勢力が本国・アフリカ・西インドを結ぶ三角貿易を営んで
オランダを圧倒し、砂糖(白い積み荷)と奴隷(黒い積み荷)貿易を独占して
巨大な富を得たのである。

17世紀初め、北アメリカ大陸に開かれたイギリス植民地では
バージニアを中心にタバコの栽培が大規模に行われ、
プランテーション制度が整ってくると、
白人の年季契約労働者に代わって
次第に黒人奴隷が使われるようになった。
その最初のものは1619年、バージニアのジェームズタウンに
オランダ船によってもたらされた20人の奴隷である。
当時はオランダが奴隷貿易を独占していたが、
18世紀に入るとイギリスがオランダの奴隷貿易の独占を打破し、
逆にスペイン植民地に対する奴隷貿易の独占権を握った。

17世紀後半以降は北アメリカ南部のタバコ・米・藍のプランテーションにも
黒人奴隷が送り込まれ、1776年のアメリカの独立当時、その数は50万人に達した。
1771年にはイギリスの奴隷貿易船は190隻を超え、
年間4万7000人が運び込まれた。
しかし、100トンの奴隷船に400人以上が鎖に繋がれて積み込まれ
航海中に六分の一、「馴らし」の間に三分の一が死亡したと言われ
その悲惨さ、残忍さは言語に絶したと言われる。
西欧諸国の商人の手によって新世界に送り込まれた黒人奴隷は
300年間に1500万人に達したと推定される。

しかし合衆国の独立前後からタバコの栽培がふるわなくなり、
イギリス本国でも自由主義思想の普及、
奴隷貿易反対の運動が高まったため、独立時に北部の奴隷制は廃止された。
ところが、18世紀末の綿繰り機の発明と、イギリスにおける綿花需要の
増大により、19世紀に入って南部の綿花プランテーションの
急激な発展がみられ、それに伴って黒人奴隷の需要も高まった。

奴隷は1830年前後にはラテン・アメリカ諸国やイギリスなどで廃止され
アメリカでも北部を中心に廃止運動が盛んになった。
しかし南部では農場主によって長らく奴隷制擁護論が唱えられ、
南北戦争を経て、ようやく1863年のリンカーンによる奴隷解放宣言によって
アメリカ全土の奴隷制は廃止されたのである。
しかし、黒人に対する差別や虐待が依然として根強く残っていたため、
1950年代から1960年代にかけて、人種隔離や差別の撤廃を求め
法による平等な地位を獲得するための公民権運動が活発化した。
その最大の指導者がマーティン・ルーサー・キング・ジュニアだったのだ。

アメリカという国の歴史を振り返って見えてきた真実は
自由をむさぼった民族と自由を奪われた民族が
一つの国に多数存在し、今だ融和されていないことである。
植民者の子孫は根拠のない優越感にまだ浸っているのだろうか?
長い間抑圧され差別されてきた者たちは、
真の自由と平等を手に入れることができたのだろうか?
その答えは貧困と劣悪な環境にあえぐ黒人ゲットーや
インディアン保留地が今なお存在するという事実が示している。
侵略と略奪によって出来上がった多民族国家アメリカの抱える負の遺産は、
とてつもなく大きいのだ。



★昨年の夏、カリフォルニアで放射線技師をしている
アフリカ系アメリカ人の知り合いに
「キング牧師について書かれた本を読んでいるよ」と話したら、
以下のようなメッセージを送ってくれた。


「I'm really impressed that you are reading up on Dr King!
 
君がキング牧師の本を読んでいるなんて本当に感動したよ!

Most people just listen to the music but
they don't do research on the history of Black people in America.

みんな音楽は聴いてくれるけど、アメリカにいる黒人の歴史を
知ろうとはしてくれないからね。

I believe that once you know and understand out history,
you can better understand our music.

君が私たちの歴史を知り、理解してくれたなら
我々の音楽(黒人音楽)をもっと深く認識することができると思うよ。

My ancestors had a very difficult time here in America
but times have changes alot.

私の先祖はここアメリカで非常に辛い時を過ごした。
でも時代は確実に変化を遂げてきている。

Not everything is perfect but things are much better
than they were years ago.

全てがパーフェクトとはいかないまでも
いろんな事が昔よりもよくなってきたよ。

If you want to know our full history than I would recommend
you watch a show called "Roots".

もし君が我々の歴史に関心があるのなら
「ルーツ」というドラマを見てほしい。

It shows the full story of our history from how my ancestors
were captured in Africa and brought to America as slaves 300 years ago.

それは300年前、どうやって我々の先祖がアフリカで奴隷として捕らえられ
アメリカに連れてこられたかという歴史を描いたものだ。

There is also a 2nd DVD called "Roots. The next generations"
that shows a bit more recent history.

「ルーツ・次世代の人々」と呼ばれる2枚目のDVDも出ていて
それは最近の歴史まで描かれているんだ。

If you are interested you can get more information on the DVD's here.

もし関心があるなら、ここに詳しいDVDの情報が載ってるから見てね。」


<2009・9・20>







アメリカン・インディアンのスー族















アメリカン・インディアン

















アメリカン・インディアンの酋長

















カリブ海に浮かぶ西インド諸島

ピンク:バハマ諸島
1492年、この中の小さな島にコロンブスが到達する

緑:キューバ島
紫と青:イスパニョーラ島
赤:ジャマイカ
黄色:プエルトリコ







大西洋の奴隷貿易












奴隷売買のポスター(1769年)

"シエラレオネから94人の良質で健康なニグロ(黒人)の
積み荷が到着し、売り出し中"と書いてある

内訳は39人の男性、15人の男子
24人の女性、16人の女子













奴隷船にどうやってアフリカ人を積み込むか
そのプランを記した絵図




















アフリカ人は奴隷船の中で狭い棚に交互に寝かされ
鎖に繋がれて連行された

アトランタにあるアフリカン・アメリカン博物館で
友人が撮影したもの











アフリカ系アメリカ人の先祖の歴史を描いた
テレビ・ドラマ「ルーツ」(1977年)は
アメリカで平均視聴率45%を記録する

日本ではその半年後に放送され、平均視聴率は23.4%
「ルーツ」という言葉が流行語になった

「ルーツ2/The Next Generations」は1979年に放送された